セミリタイヤ 時々○○…

あれこれいろいろ半分降りてみた 3歩くらい下がって思うこと

人を嫌うとか、羞恥心とか、

若い頃は…っていつを指しているのか自分が気にもなるけれど…
今より15年前は確実に嫌いな人には嫌いですってオーラを出していた

私はあなたが好きではありません 嫌いです

相当嫌なニンゲンであったことは間違いない
イワユル感じやすい、今時のHSP(誰かの気持ちが入ってくるんです と訴える傾向が強い人たち)と言われるタイプで、誰かが困らないように先回りして手を打ってしまったりして気苦労が絶えない生き方をしていたけれど、ある時「もういい!止める」と決断し、嫌いは嫌いなんだと自分に許可を出した結果そうなった
ちょっと珍しいかもしれない

楽になった部分もある
がしかし、「良心の呵責」…って何の良心なのか気になる これ…罪悪感と言った方が良いかもしれない 誰に迷惑をかけている訳でもないが自分が何もしないことに罪の意識が生まれてくる 毒親育ちのひとつの特徴だから仕方ない

仕方ないんだそう浮かんでくるのは、アンタは間違えてない

そう言い続ける 心理学のお蔭様

 

人を嫌う理由には理屈はない
ダメだ…と相当感じたら嫌う

待て…「嫌う」にはたくさんの意味がある
生理的に受け付けない 怒りを感じる 攻撃してくる 倫理的に受け付けない 非常識である それから、その人を見ると自分が恥ずかしくなる=共感性羞恥が起こってその人を避ける 私は最後が強いようだ…

明治生まれの祖母の影響はある

人には人の道理がある その人の分がある 善を行え

書いてみたら自分でうなずくわ…
古い人間、前世紀の遺物、アナクロ です

人を嫌いになってはいけないのような考え方がある
すべての人間がOK
私がやってきた TA・交流分析 は特にそういう哲学を持った心理学でもある

まんまでいいのですよ

嫌いだ 嫌悪感が浮かぶ って人間的な心模様
無理やり 良い人 に変換しなくても良いと考えている その人は嫌いだけど否定してない 価値観や生き方、道理は自分と違っても戦って自分のベクトルへ修正を強制しない できれば私にもそうして欲しい
最近はこんな風になっている
これで愛想笑いができるといいのかもしれないけれど、そこまではいまだに無理です

私はあなたが好きではありません
お互いのテリトリーは守りましょう

でいいんじゃないかと…

 

そんなこんな