セミリタイヤ時々○○

あれこれ半分降りてみた 3歩くらい下がって思うこと

コダックブルーとか、美貌の青空とか、青空歴とか、

コダックブルー
Kodakアメリカ合衆国のかつて世界最大だったの写真用品のメーカー)がかつて販売していたリバーサルフィルム・コダクローム(Kodachrome)の発色傾向によってそう呼ばれていた
カメラ屋でアルバイトしていた私はその色に魅せられてしまう

元々「あお」は好きな色だから
こんなあおを自分で撮りたいになるのは自然だったんだろうな・・・

黄色の箱に赤文字の「Kodak
リバーサルフィルムとモノクロームフィルムを買い込んで勇んで一人旅に行った
TRI-X 相当無理な大伸ばしもできるバリバリのモノクロ
今と違ってカメラが何でもやってくれる時代でもなく
光が・・・絞りが・・・シャッタースピードが・・・で・・・露出が・・・を考えないといけなかった楽しい写真撮影、思い出すだけでドキドキしてくる
リバーサルは難しいってやってみないと分からないでしょ!と
若いって無謀が許される頃ですよ

⇩随分退色してしまった40年程前のコダクローム
今は無い青函連絡船デッキにて

 

職場の休憩時間がバラバラだったのをいいことに、昼休みに職場の建物の陰に隠れて一服やるのがたのしみになっていた頃がある
ビルの隙間の隠れ場所
コンクリートの壁にもたれてフィリップモリスを一本だけ

見上げる青空が楽しみだったのかもしれない
ビルとビルの間から見える四角い空
無機質で暗いコンクリートの壁に切り取られた空
真夏のガツンとしたブルー

コダックで撮ってみたいと思ったが実際には撮っていない
でも、私のこころのアルバムってヤツの見開きページになってる

多分あの空が私にとっての「美貌の青空」だ

因みに喫煙は20代前半数年だけです

 

とういう私の青空歴は
空がのぞく風景が好きに着地している気がする

 

カウンセリングルームがあったマンションの駐車場にて

 

「美貌の青空」とか…「今ここ」とか…

時間が許すのなら
坂本龍一さんの「美貌の青空」聴き比べは如何でしょう…
(リンクを貼っておきました)

個人的な勝手な思いなのだが
この曲の完成は無かったんじゃないか…と

昨年公開された映画「opus」でも、この曲の途中、首をかしげて「ん?」という表情、,演奏ではなく音の探求モードになった、そして教授自身のもう一回演奏サインで終わっている
(うーーん、この後演奏された「美貌の青空」が気になる)

こんなことは坂本龍一さん、教授には当たり前に起きていたのではないかしら…

ナニカチガウ…

昨日の自分は今はもういない
何年も前ならなおさら違う

前と違うと言われたとしても怖がることもおののくこともない まして、混乱することでもがっかりすることでもない

今の自分にしかできないことはある
マエのモノをぶっ壊すかもしれないけれど、今の自分にしかできないことに対して、正直に誠実になったらやるしかないんじゃないかしら…

今ここの積み重ねが今ここ
禅問答っぽいか…

所謂「今ここ」の自分には過去の体験、感情が含まれ、それから、未来に対する目論見、企てもある
過去から未来へ続く連続した線があるとして「今ここ」はその一点でしかない
しかし、単純な通過点でもない
未来になればなるほど内容物は複雑になり背景の厚みは増すはずだ

「今ここ」は継続的変化のその時々の頂点ということになる

ということで

過去の自分のナニカを今の自分が変えるのは有りでしょう
過去の自分は過去にしかいないし、もうその自分に戻ることは不可能
過去の体験や感情は記憶の中にあるもので、今の自分でその時と同じように感じられるかどうかは分からない…まず無理でしょう

むしろ、新鮮な自分で新鮮な体験をしたいと私は思う
「今ここ」の背景と未来への目論見から生まれるモノに誠実に生きる
そういう生き方がいい…

 

youtu.be

 

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youtu.be

 

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元朝参り(初詣)とか、自分らしいとか、自分に優しいとか

今日は2025年1月13日

また随分書かなかった…

書くためだけに書かないようにしよう
仕事のために書かないようにしよう
仕事のために書き続けた反動じゃないかしら…

 

 

この辺では初詣を「元朝参り」と言う
他の地域の方に通じないかもしれないと知っていながら、どこでも、どんな場面でもこう言っている

こんな拘りというか。頑固な部分があってもいいんじゃないかしら…

私はこういうもん(者)です
と言えることは有っていい

大袈裟かもしれないけれど「自分はこうです」と言える部分は無くしちゃいけなんじゃないかしら…

最近は特に「自分」という言葉が引っかかる

若い頃は周りと違うことが恥ずかしいとか、悪い意味で目立っているんじゃないかとか考えて少数派にならないように気をつけていた

特に女子の世界はこう言う傾向が強いんだね…
皆と違うとハブられる危険もあるし、横並びになっていないといけない圧もある

私の若い頃は「世界でたった一つの○○」連呼は無かった
出る杭はボコボコになるまで打たれ、
変わったことをすると「不良」レッテルを貼られる
24時間働いてディスコで皆同じダンスをしていた時代

私にとっては窮屈でしかなかったのだが…

こういう文化に馴染んで、この先頭を走ってというか…この文化を先導する輩もいる

人それぞれだから、それで幸せならいいのでしょう…

 

一時期「自分探し」ってのが流行っていて
自分探しの旅やら、趣味やら何やらそこいら中に見かけたが
今はどうなんだろう

「自分」というものは自分の外にあって、わざわざ特別な事をしなければ見つからない前提があるということなのか…と私は考えてしまう

「自分」は自分

「自分」は自分でしかない

今の自分は自分を蔑ろにしてきた結果の自分かもしれない

周囲に合わせてきた自分しか分からない、
「周囲=自分」の鎧が脱げない
いい加減、歳を重ねてハタと思ったら自分らしい自分がわからなくなっていた
こんな話はよく聴く

だけれど、気がついたので「自分らしい○○」を考えられるってことで、気がつかなかったら考えることもない 自分の人生には疑問はないタイプになるかもしれない

 

生きていくって正解はないんだわ…

 

どんな状況でもきっと一生懸命だったんだ
いい加減に生きたとしてもいい加減を選択して懸命に生きたんだ
バカなことをやったと分かるのは、それがバカだったと学習した結果であってバカをやってる時は懸命にやってたに違いないんだね

と考えるようになり、私は自分に優しくなった

バカだった
意固地だった
選択を間違えた

いろいろやらかしてきたけれど
これが自分なんだよ…

今年もマイペースで行きましょう!