セミリタイヤ 時々○○…

あれこれいろいろ半分降りてみた 3歩くらい下がって思うこと

本質とか、自己実現とか

こころに携わる仕事をしている方は自己研鑽好き
自分が発展途上だと自覚して学びに勤しんでしまう
ある面どこかビョーキかもしれない
「慢性心理療法症候群」と揶揄された有名な先生がいた
ホント…そう…

心理療法の学びは実際自分で体験するワークショップ形式で開かれる トレーニングでもあるけれど自分のけれど内側と真摯に向き合ってナンボ テーマのロジックの理解と自分で体験する場になっていて正に自己研鑽 …と私は考えているけれど、そうじゃない人がその場をぶっ壊したりして気持ちの置き所に困ることもある…個人の愚痴です悪しからず

さて…

随分前のワークショップにて体験した「過去生のワーク」「未来生のワーク」の行きついたイメージが未だに私に影響をしているんだと最近思う 長くこの心理界隈に棲息し研鑽に勤しんでいるといつまでも鮮明に記憶しているメモリアルワークがあるけれど私にとってはこの過去生・未来生のワークだろう

過去生

「山奥の庵で自給自足の生活をしている修行僧(結構若い)たまに村人が来る」

その後に続いて未来生

「ヨルダン辺りの砂漠に立っている長老、左手に羊皮の本 軽く砂嵐」

たった今も風景やその時感じた体感覚を鮮明に思い出すことができ実感が伴うワークだ

「過去生が若者で未来生が老人…うむ…合ってるかもね」とファシリテーターに話したことも覚えている 細かいシチュエーションは長くなるのでさておき、この二つのイメージは私の本質を現わしていて、浮かんできたイメージで私にナニカを伝えようとした

「過去生」「未来生」という表現はなにやら不思議な響きもあるがここでは摩訶不思議系、前世の解釈は脇におきたい 知っている方も多いと思う 私は心理学のほかに精神世界、サブカル、スピリチュアル、宗教の勉強をしてきて、実際に夢見や夢解釈、カードセッションをやることもある
しかし、今まで学んできたことはそれぞれのカテゴリを守るべきだと考えている
例えばフォーカシングは心理療法であってスピ系のリーディングではない 雰囲気や言葉つかいが似ていたとしても立脚している理論が違う それからフォトコラージュのワークはカードを使うが占いではなく心理学に基づいている 占い師と違いフォトコラージュセラピストは何も助言や予言めいたことは一切何も言わない
逆にオラクルカードのセッションはイメージと感覚、説明できないナニカをフルに活性化させる アタマは守秘義務くらいしか考えてないかもしれない
全く違う根拠の全く違うスキルをこれも全く違う体感覚とアタマを切り替えている

心の学びのカテゴリは融合させるものではない 融合させたいという根底にどちらかを吸収合併したい考えがあって、こちらが上であちらを下に置きたいらしいと私は結論した とあるコミュニティを毛嫌いしている理由はここにある

なによりも自分のワークで自分が感じ取ったことを大切にしたい 何かに邪魔されないシンプルで純粋な自分の感覚でしか自分を知ることが出来ないと私は考えている ワークの中で感じたモノに自分が在る 心理学の理論、精神世界の掟に当てはまらなくてもいいし、当てはめなくてもいい 勿論、最初から結論ありきのワークはあり得ない
その上でカテゴリの境界は保つべきである 答えがわからないことをエネルギー、前世、因縁、悟り…などで納めるのは疑問しかない

あらゆる生命体には自己実現傾向が備わっている
自分の本質を知ると本来持っている力を十分に発揮できる
私はそう確信している
本当に自分がなりたいもの、生きたい方向は自分しか知らない

未来生のワーク スケッチ

ところで私がワークから知ったことがある

私の人生は一筋縄ではいかないらしい…ということ

そして、実際そうなってる

自分は自分 皆と同じ道でなくてもいい
自分のことは自分でなんとかする

そんな風に腹を括っている私の心の奥の奥
最近よく思い出すのでセルフフォーカシングしている
気になることには必ず意味があり、
気になっている時に必要なことがある

「腹を括ったらしい」今の自分

今の私の感覚の意味を探求するために内側の冒険に出る
フォーカシングの醍醐味

 

前世が○○だから今世は××
というアイディアを私は採用していない
このアイディアは「今、ここ」がない
今生きている不都合の言い訳をしているのではないだろうか

摩訶不思議系/スピを私は否定しないけれど自分たちのアイディアが全てという姿勢には閉口している 人間である以上、人間以外のことは知る由がない 知らないのだから私自身は真摯に敬い畏怖の念を持ってしまう

しつこいけれど心理学とスピ系を混同してはいけない
心理学のワークには目的がある あるけれど目的達成を目指さしているワケでもない 心の向かうまま、ワークのプロセスを重視する結果、不思議な結末が待っている場合もある それ以上の解釈はしないし必要がない、意味は本人が知っている

感覚には同じモノはない
似たような感覚を覚えたとしても「今、ここ」と「あの時、あの場所」とは何かが違っている 

「今ここ」を自分らしく精一杯生きる
人生は「今ここ」の積み重ねである方が良いんじゃないか…
「あの時代、あの人」を生きて何になるだろう
「あの時代、あの人」のエッセンは何だろう…
それが自分に影響しているとしたら
それが「今ここ」に影響しているとしたら
こんな問いかけの仕方もある

随分詰め込み学びをしてきた
内側に落ちたことと削り落としたことがある
生々しく、実感して自分を生きるとしたら何が必要なのか…
精査はまだ続くと思う