議論好きというのか、面倒くさいヤツなのか
中学あたりから面倒くさい話をして楽しむ悪いクセがある
自分の考えを他の誰かと話してみて修正や不足を確かめるとか、情報収集のひとつの方法なのだろうな…昭和の若者はこんな奴も多かった、古臭いニンゲンです
面倒臭いタチの人間の友達は同じタチか、全く逆の鷹揚な、ある面何も気にしないタチでないと付き合えないらしい あーでもないこーでもないと真剣に話している横でかっぱえびせんでも食べながら「そーなんだ」と言ってニコニコしてる人でもいないとと険悪なムードのまま明日まで持ち越しなんてことも起こる 「そーなんだ」は魔法の言葉だし、「そーなんだ」でおさめられるのは才能だと思う
人生経験の浅い若者のギロンは容赦なく残酷になってしまうこともある いや…あったんだ昭和の青春は真っ向勝負的な関係でも友情は成立していた 相当やりあっていた人との信頼関係は深くて長いものですよ…私個人の経験ですけれど
さて…
小生意気な昭和の女子高生は言いました
「孤独の色は何色か?」
A:色?色なんてないでしょ
B:冬の森の色
C:いつも見てる風景
D:わからなーーい
思い出しても昭和な会話っぽい
色と言ってるのに誰も具体的な色を答えてないってことは脇に置きましょう
思い出している今ここの私はナニカ「あ~あ」のような、こそばゆいような感覚を覚える 背伸びして文学っぽく哲学っぽく話したい少女たちです 苦笑もん
と言いつつ…
私はC子さん 何を見ても生き生きとした感覚が持てず、俯瞰気味、自分の感覚を大切にできなかったし何をどう感じているのか実感に乏しかった 表面的にはいろいろ取り繕って目立たないよう注意も怠らず社会適応してたワケです
人の本質は変わらない
今では確信を持って言っております
人の本質は変わらない
それを知ってどうするかは決められる
本質は変わりようがない その上でどう生きるか主観的に意識的に決めるしかない、外側から見えるのは決断後の自分であってそれが私のキャラクターとして他の人に知られている前提で社会生活してる
あー面倒くさいこと考えるヤツ
要するに…
自分の面倒くささを知っていて、このままでは社会でうまくやっていけないので適応しているかのように予め修正してるってこと
私にとって世界は「孤独」に生きている場所、いつもの風景は孤独を描写しているに過ぎない こんな「掟」が根付いている 若い頃からずっと生きづらく感じて苦しんできたオオモトはここにある
こういう人でOK
心理学のお陰様
書き直せたらどんなに楽だろう…とは思う
がしかし、修正し尽くすのは無理と経験的に知ってる
ストレスが高い時、心に余裕がない時、精神的負担が重い時などは慣れ親しんだ感じ方、考え方にシフトしたがる
所詮、孤独だ!
しょーがない、孤独は孤独だ
そう感じるタチなのだから仕方ないんだ
開き直って孤独になってみるという特技を習得してしまった
しかし、孤独になって初めて分ることは多いんだ
私:あのさぁ…孤独って何色だと思う?
アラカンB子:冬の森の色…昔もこう言った気がするわ…
よくぞ答えてくれました
面倒くさく生きてきた仲間はいる 孤独な人は点在するけれど繋がりはあるし理解が深い なおかつ、お互いを荒らすことはない
孤独は状態、孤立と区別した方がいい
そんなこんな
知ってる自分・知らない自分 自己理解と分析に興味のある方へ参考です