セミリタイヤ 時々○○…

あれこれいろいろ半分降りてみた 3歩くらい下がって思うこと

孤独とか、「ひとり=孤独」方程式とか

心理支援者はこの道を行くと決めてから…
というよりも
現場に立ってから自分の未熟さや偏り、自己理解の低さを思い知る
思い知ってもなお「いや私は凄いんだ」と全くテコ入れしない自信満々タイプ、一方で謙虚に受け止め研鑽を重ねる研鑽継続タイプ、それから自分の甘さを知って辞めるドロップアウトタイプがある
大きく分けるとこうなるかな…

自己探索が趣味なのかもしれない私は研鑽継続タイプに分類される
まず自分を何とかしないことには誰かを支援するのは難しいと考えている
自分がかなり複雑な人間だとほとほと知っているので相手の複雑さを尊重できるんじゃないかと思う(自制してますけれども…)

 

心理学の講座・ワークショップの参加者の背景はいろいろある
講座の内容にもよるけれどプロ、セミプロ、心理学好き、それからなんとなく興味がそそったという方は実は少なくない 無意識に心について引っかかりがあってヒットしたらしいと講座の中で気づき心理けもの道を同道する仲間になったりする ウェルカム!

 

でもって…
私が好んで参加する講座は「孤独」がテーマになることが多いのは何故だろう…

 

「人間には成長に向かっていくための資源や回復するための能力が潜在的に備わっており、その人がどうしたいのか、どう在りたいのか、というのはその人自身が一番知っている」
カール・ロジャース  
アメリカ合衆国の臨床心理学者 来談者中心療法 Client-Centered Therapy

 

その人がその人自身になっていく時
孤独を感じる過程があると私は思っている
ひとりになってみて感じることは
みんなと一緒に感じることではない

みんなと同じではないたったひとつの存在でいい
たったひとつの存在でいいと思っている人の集まり

そういう場所になる講座は少ないと思う

 

 

孤独は悪なのか…

孤独とは

1 仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。また、そのさま。「―な生活」「天涯―」
2 みなしごと、年老いて子のない独り者。 (goo辞書)

「孤独」こどくにはこんな意味がある
暗く寂しい世の中とうまくいってないフツーではない人
だから自分を孤独認定すると
必要以上にフツーでない人間像を想像してしまう

言葉は慎重に使わないといけない
言葉には概念があって概念を採用しがち
感じていることより”意味”を欲しがる

 

孤独認定しているのはどんな場面だろう…

 

ひとりは全て孤独なのか
「ひとり=孤独」方程式になっていないだろうか

ひとりであることはその状態に過ぎない場合は多い
ひとりであってもこころは感じることは止めないし
ひとりで悶々としている自分に眼差しを送っている人がいたりする
ひとりだと決定し意味付けするのも自分
認知は考えているより偏って歪んでしまう


精神的な孤独は
むしろ自分を知るチャンスかもしれない
身につけているナニカを落とさざるを得ないたったひとりとなった時間
ひとりの自分と出逢うしかない

人には元々心の資源がある
自分になっていく資質はその人独自のものであって
他の誰にも使うことができない

孤独と共にいるしかないないのなら
きっと孤独と向き合う才能があるはず

私はこんな風に考えている

孤独を恐れることはないんだ