セミリタイヤ 時々○○…

あれこれいろいろ半分降りてみた 3歩くらい下がって思うこと

不登校とか、友達100人とか、

小学校も中学校も…嫌いだった
友達が少ないってこともあったかな…
いやいや…友達が少ないから行きたくないのではなく、
友達を作らないといけないから嫌だったんだ
一人はみんなのために、みんなはひとりのためにという教育だったし、文化だったし、世間の思い込みだったからキツかった
どうして友達100人できるかな?何だろうと不満に思っていた子供だった
これが大きな理由

考えてみたらあの太平洋戦争から20数年
戦争を知らない子供たちさ~と歌って一部から反感を買っていたらしい
日本という国は
早く強くたくましく、とにかくヒエラルキーの上に行かなくてはならない
と思い込んでしまっている気がする
小さい存在に優しくない むしろ犠牲にして前進しようとしている
(今も変わらずこんな感じじゃないかしら…)

ということで
規格品の子供、家庭、サラリーマンが必要だったのだろうなぁ…
私も立派に洗脳されていたワケで、学校に行かない選択はアタマに存在しなかった
とにかく行かないといけない場所でしかない
さらに、「あんたはこんな成績じゃないはず!」無言の圧力をかける親がいた
授業がつまらない
好きなことはできない
親が学校で恥ずかしいことをする(私にとってはみっともないこと)
給食でアレルギーをよく起こしたので当然食べたくないなどでやる気を起こせないのだから成績が良い訳がないんです

子供の頃は居場所は無かったなぁ…

クラスに馴染んで無かったせいか”いじめ”もあって、実態を知った母親が相手の家に乗り込み事態は更に悪化する、それでぼんやりと「この世界はダメだ」と考えるようになった 子供らしい大雑把な絶望感ってヤツ

でもって…

現実と意図的に距離を置くのような処世術を子供の頃身につけた
これが後々まで悪い影響を及ばしてしまう
ある面これで心理学を始めたのだから全てネガティブでもなかろう…と今では思う

 

不登校」という言葉は精神医学者の清水将之が1968年に学会(日本児童青年精神医学会)で初めて使った言葉だそうです(使われ方が少し変わってきたとのこと)
私が子供の頃は「登校拒否児童」、今でも文科省の定義にある

母親が目を吊り上げて厭味ったらしく「登校拒否」を否定するものだから「はいはい」と従っていたけれど学校に行きたくなかった 学校は私にとっては戦場でしかなかった
勝てはしないが負ける訳にもいかず塹壕を掘って身を隠し生き延びた

こんな子供時代だったなぁ…

子供に寄り添うのは簡単ではない

自分の道のりがそう言ってる
しゃがみこんで立てない子供を無理に引っ張って立たせるのは如何なものか…
大人のホンネを実に正確に察知してその通り演じてしまうようなこともする
せめて休ませてやってくれ!!!
一人の時間も必要な子もいる…

 

朝の不登校テーマの番組から